ネット上でハンドルネームを使うのは既に常識。何が起きるか分からない世の中で、犯罪から身を守るため、プライバシー保護の観点からも当たり前だから。...というのは表面的な理由。

■ ハンドルネームが必要な理由

中学1年の頃だったか、文通友達の一人がこんなことを書いてきた。
「マンガを描くヒト(マンガ家やマンガを投稿する人一般を指す)はなんで自分の本名を使わないんだろう? 変な名前でカッコつけちゃってバカみたい」

その頃の私はマンガ大好き人間ではあったが、基本的にまじめ人間だったので、彼女の言うことは しごく正論のようにも思えた。(確かに少女マンガ家志望者のペンネームには、いかにも懲りすぎで噴き出したくなるものもある。)

が、同時に「そういう見方はなんかおかしい 違う違う」と心の片隅がざわめいた。

何がチガウのかと一生懸命考えに考え、返事を書いた。
「私は、詩を描いたり、手紙を書いたりしてるときの自分は、ふだんの日常生活の、ご飯食べたり学校の友達としゃべったりするときの自分とは、違う自分だと思う。だからそういう自分に別の名前=ペンネームをつけることは、おかしいことではないと思う。マンガを描く人も、マンガを描いてるときは、普段家族や親しい友達には見せない顔をそこでは出していると思うので、そういう自分をいつもとは違う自分だと思っているから、ペンネームをつけて、別の自分として称するのではないか」と

 このとき初めて「自分の意見を言う」ということがわかった気がした。
 それまでの私には「正しい意見」と「間違った意見」という分類しかわからなかった。よく子どもに云われる「自分の意見を言いなさい」とはどういうことなのか。
 「他人と違う意見を言う」ということなのか?しかし「正しい」意見というのは一つしかないのだから他人の意見が正しかったらそれとは違う自分の意見というのがあるなら、それは間違った意見のことではないのか? と、子どもの私は思っていた。
 そうではなく、その人にはその人なりの経験やものの見方や考え方に基づいた「自分の意見」というものがあるということを、友達への返事を考える作業を通して、自分の実感として理解することができた。


「わたし」というものは、誰だって心の中に「一人」しか存在しないというものではないはずだ。
 強い自分/弱い自分/バカな自分/間抜けな自分/おちゃらけた自分/利口な自分/正義の自分/真面目な自分/弱気な自分/子どもの自分/大人の自分/虚実皮膜の間の物語で遊ぶことのできる自分/etcいろんな自分を飼っている

 少し勿体をつけたことを書かせてもらうと、心の中には100人の小人がいて、何かの問題に対して、99人の小人が賛成して残りの1人の小人が反対というような状況はままある。しかし、その少数派の小人が結構強力で、多勢の99人の小人をひっぱっていくこともある。
 わたしンちの小人たちは、ほとんどはなまけもので「なんとかしてこの続きを書かなくては」などとヤル気のあるのは少数派で、いつも怠け者の多数派から迫害されている。
「1円にもならないことを」「誰のために」「何のために」「あーだ こーだ やいやい」「さっさと寝なさい!」そういう多勢による攻撃の合間を縫って、少数派の小人がこのファイルを書かせている。(笑)

 人権や子どもの問題に関係するサイトでは、”そういう問題に無関心でいられない自分”というものがnobiというハンドルでカキコしている。






■ ハンドルネーム雑談

 ハンドルネームをサイトごとに使い分ける人もいるし、使い分けない人もいる。

 人によって、自分のサイトに、自分の趣味のコーナーから自分の家族の描いた絵手紙まで、何でも載せる方もいる。そういう人はネットで発言するとき、どこで発言しても同じハンドルネームを使う。
 私はそれを「CDな人」と呼んでいる。CDは片面にだけすべての曲が収録されていて、レコードのようにB(裏)面はない。

 また、ある人は自分の子育てについてのサイトと、自分とネット友達でつくるオタク趣味の別のサイトを完全に別々のサイトとして分けて管理し、そのサイト間にはリンクも貼らない。(こういったことは私だけのことではナイ。)(メールを交換するほど親しくなって、ほぼ同年輩で同じような家族構成ときて、あ、似たようなことをやってるとわかったため。)(気がつけば似たような人は少なからずいるのだった。)
...彼女いわく、家に遊びに来た中学生の息子さんの友達が居間にあったマンガ××の全○○巻がハハオヤのものであることを知って、あとで息子さんにいったそうだ。
「おまえのかあちゃんオタクだったんだな。ドンマイ!」... 
 (なななななんで「ドンマイ!」なんだあああ。)

 そういう二つ以上の別種のサイトを持っている人の場合は、サイトごとに別々のハンドルを使う。サイトに訪問する人の層も違うし、それぞれ別個の自分なのだから当然です。なので、彼女らも私も子育てについてのサイト関係のカキコではそのハンドル、オタク趣味のサイト関係では別のハンドルと使い分けている。A面サイトとB面サイトがあるわけだから、こちらは「CDな人」に対して「レコードな人」と云う。(笑)

カキコするときのハンドルはサイトごとに統一されていればいいんです。(と思います)

(同じサイトのBBSに書き込むとき、そのつど別々のハンドルを使い、別人のふりをして混乱をあおる「荒らし」目的はここでは論外。)

ファンサイトなどで、たまに「いままで××というハンドルでしたが、今回から○○に変えます」という書き込みがある。「あら宗旨替えしたのネ」と思うけど、「HNの変更を繰り返すとあまり信用されなくなるよ」と注意の書き込みもついていたりする。しかし、ハンドル名が他の人と被ってしまっていると分かったときなどは仕方がない。

人権に関するほうのサイトで、たぶん一回きりの書き込みのつもりだったらしい。本名で書き込みしたらしいのがあった。たぶん思いがけずレスがつき、ツリーが出来ていくうちに、本人、まずいと気がついたらしく、「今まで本名だったので、私もハンドルを考えました。今度から△△という名前で書き込みます」と、挨拶してハンドル「に」変えた人もいます。そういうのはハンドル「に」変える立派な理由なんだから、ちっとも失礼じゃありません。ネットは誰が見てるのかわからないんだから、プライバシーの面からも、ぜひそうするべきです。

■ ハンドルネームとサイトという枷(かせ)

 かくいう私は他人に指南することなど出来ない。子どもや人権関係のよそのサイトでカキコする場合、その掲示板でCAPの話題が出たときなどに「私もこういうサイトやってまーす♪」とサイトを紹介するだけのときはnobiにしているが、なにかそれなりに思うところを書きたいというときは最近はnにしている。サイトURLも置いてこない。(莫迦だ)(とくに隠しているというわけではないんですけど)

よそんちの掲示板で、CAP関係の掲示板やCAPの話題が出たときなどのカキコはURLを置ける。しかし子どもや人権に関するサイトであってもCAPを知らない人は知らないわけで、そういう場所では、カキコするときにちゃんとサイトの説明をしておかないと、CAPについて耳慣れない人には宗教団体か政治団体かどこかの企業の開発した学習プログラムの一種だと思われ、読んだ人に退(ひ)かれてしまいかねない。(爆笑)(はたまた「キャップ」でなくて「キャンプの講習会ね」と思われたりしたことがある。(全部違いますよ。為念ヽ(^_^;))

しかしわざわざ「.CAP応援の頁です。子どもに自分の権利や身の守り方などの情報を伝えるCAPワークショップの企画の仕方についての情報など載せてます」とサイトの説明をカキコに付けておくと書くと「まじめさに頭が下がります」とか「がんばってください」とかのレスがついたりする。これは、敬して遠ざけられるようで、いい感じはしない。(笑)


「CAP応援の頁なんぞを作ってるまじめな人」というバイアスがかかって受け取られたらイヤダという逃げの姿勢になっている。そしてまた「そんなサイトを作っている人がこんなことを言うなんて」と言われるようなことをまたしでかしたらどうしようと、内心びくびくしている。
..........(T-T)ノ_彡☆
こんな逃げの姿勢の小心者では、とてもCAPの「広報ボランティア」とは言いがたい。

( 03,02,21)

山口百恵の歌は 「恋した日から♪ 別の私が目を覚ますの♪」

 車に乗ると人格変わるという人もいるように、ハンドル使ってネットしてるときは人格変わるという人もいるわけで。
「ネットのなかでは誰でも簡単にマフィアになれます」と、あるシスオペさんも言っていた。
「♪ネットデビューした日から、×××な自分が目を覚ますの♪!?」
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