( 付記 または 雑記 )



その1 同じ言葉を話すということ

私は「悪気がなかったのだから」許されたいと言うわけではないが、Aさんの最初の書き込みにも、多少なりとも、説明不足の点があったと思う。(やっぱり言いわけだ。)

それで思い出したのがやはり社会学で聞いた話
(こういう話を、まるでそのとおりの失敗をしたあとで思い出すのだから、情けない。)

第二次世界戦争の終結後、敗戦国(のドイツだったかイタリアだったか忘れたが)に、戦勝国の何カ国かの兵士が駐留したが、駐留している町で各国の兵士同士の間でトラブルがよく起きた。

違う言語の国の兵士同士が衝突したのだろうと思えば、さにあらずいちばん言葉が通じるはずのアメリカ兵とイギリス兵の間で、もめ事が一番多く起きたそうだ。同じ ENGLISH(に見えるが、じつは英語と米語)で話しているので、お互いに自分の話は相手に通じるはずだと思っていたことが、トラブルの土台になった
とか、教授は言っていた。

たぶんAさんも、同じことに関心を持ち、同じ掲示板(BBS)を閲覧しているのだから、この場所に集る人になら自分の言葉が(詳しく状況を説明しなくても)通じるはずだと思ったのではないか。

というのは、私自身も、ネットに参入はじめたころは、そういう思いを持っていたから。
しかし後に、掲示板は、ピア・カウンセリングのような場所になるとはかぎらないと思うようになっていった。(「 ならない」とは言わないが、実際のところ、そういう場所のように錯覚しないほうがいい思う。)(という理由についてはまた別のファイル)

その2 「地位」にともなう「役割」「演じる」こと。


「子どものふりをする 子ども」のファイルでも書いたが、私は「演じる」ということを否定的にとらえていない。文学の言葉ではなく、社会学の言葉として使っている。

社会学では「 誰でもその人の地位とそれにともなう役割を演じている」と説明する。
「地位」というのは、ここでは会社での肩書きといったことをさしているのではなく、親であること。子であること。妻であること。夫であること。学生であること。先生,主婦,店員,お客様,会社員,消費者 エトセトラ…。あるいは男であることも、女であることも、生物学的区分ではなく、社会においてはそれが期待される役割を演じるものであることはジェンダーでも説明されている。

( しっかし、結婚していて子どものいる女優さんなどが、「××さんは『女優』と『妻』と『母親』という三役をこなしてきた」というふうに紹介されることはあっても、同じ立場の俳優が「彼は『俳優』と『夫』と『父親』という三役をこなしてきた」というふうに紹介されるのを目にすることはまず、ない。 『夫』と『父親』というのは、『妻』や『母親』と比べて役割が稀薄ということか、期待されてないということか。)


「地位」と「役割」/たとえば…

私達は誰でも、その人が、どういう性的嗜好や趣味や社会的主張その他を持つのかを知らなくても、恋人でも家族でも友達でもない初対面の異性であるにもかかわらず、その人からある場所で「服を脱ぎなさい」と言われれば、その指示に従う。そこではお互い、羞恥心などないかのようにふるまう。



なぜならその場合は



相手が「医者」で自分が「患者」で、そこが病院だから。
病院という舞台で、相手が 「医者」 を演じていて、自分が 「患者」 を演じているから。


秋川りすの4コママンガで、診察を受けようとする患者(女)に、医者(男)が気がついて「 きみ、中学が一緒だった誰ちゃんでしょう?」と言ってしまい、あわてて患者(女)が胸を隠して恥ずかしがり、診察不可能になるという場面がある。これは、「同級生」という地位がはいったため、「医者」 と 「患者」という地位と役割を演じるができなくなった…と、社会学のコトバで説明できる。

相手をいちいち”性的対象になりうる見知らぬ異性”として見ていては生活は成り立たない。
自分がその場その場における役割を演じることと相手も同様であろうことを信用することは、社会生活をしていくために必須条件。責任の自覚と、自分をまもるためでもある。(「医者」のほうだって、相手を「診察の対象」として見ていかないと、毎日の仕事にならないわけで。)(もちろん期待される役割の仮面がはりついてしまい、それが自分の感情をないがしろにすることになっていいと言っているわけではない。)


同様に、 私は人が本音と建前を持つということを必ずしも不健全なことだとは思っていない。

カウンセリング関係の本だったか、「親も先生も本音と建前を持っている」と言って嘆く青年の話が出ていたが、「本音と建前があるのは良くないことだ」というのは、場所柄や相手の人の気持ちを考えずにものを言い、「本当のことを言って何が悪い」というような幼さに通じているようにも思う。




その3 原因 ( x )と結果(y)

AさんがBBSで尋ねたかったのは、(すでに性犯罪を犯して釈放された人が再び犯罪を犯す可能性についてではなく)”日ごろ普通の社会生活を送っている人達のなかの将来の性犯罪者をどうやって見分ければいいのか”ということだとAさんの最初の書き込みを読んだときは思った。(しかしそれは表面の主題で、力点を置いたほうがいいのは、「将来」「その人」たちが犯罪を犯すか犯さないかというよりも、「今」のAさんと「その人」の関係のほうだったのではと後になって思う。)

性犯罪について、「 公園に住んでいる浮浪者」のような特別な人だけが犯罪者になるのではなく、普通の社会生活を送っている人を含めて、誰でも犯罪者になりうる−と検証されている。

「あらゆる職業の誰でも/誰でも子どもへの性的虐待の加害者になりうる。」 というのはやはり怖い話だから、できるなら、特別(異常)な人が特別なこと(犯罪)をするのであってほしいというのが人情。

しかし、誰かと誰かが以前からの知り合いで、その一方がもう一方に対して「コイツ、ちょっとあぶねーんじゃないの?」という犯罪の予感を抱くことは出来るかもしれないが、そうではないどこかの誰かに対して、何らかのカテゴリー… 「いいトシをして 独身だから」「定職に就かずにぶらぶらしているから」「アダルトビデオを借りる常連だから」「オタクでロリコン趣味だから」…などで、将来犯罪者になるかどうかを予見することは出来ない。


(とはいっても正直な話、私はTVのニュースで「いいトシをして 独身」で「定職に就いてない」人の犯罪を見ると、「 これが30年前の日本の農村社会で、ムラの中にそういう男がブラついていたら、親戚縁者一同あつまって、彼に適当な嫁さんを見つけて所帯をもたせて”落ち着かせる”ことをして(犯罪は未然に防げていた)かもしれないな」と、思ったりする。結婚という制度に社会を安定させる装置としての面もあり、また、恋愛→結婚が一般的なことになったのは近代以降ではなかったか。)



私にとって「犯罪の予見は出来ない」は、いわば自明の理だったので、Aさんへのレスにはそういうことは、すっとばしてしまった。書かなかった。 といって、「性的嗜好による犯罪の予見は出来ない。云々」と書いていればAさんは納得したとも思えない。

どうレスをつければよかったのかと、あとになって考えることがある。

思うに、” 不快な性的発言をする「その人」に対する処し方として、「あなたは、子どもが誘拐される事件が起きたとき、『あのひとはあやしい』として警察に通報されても仕方のないことを言っているんだよ」と、警告を出してみてはどうか ”と、書けばよかったのだろうか。



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犯罪者は犯罪に走らないその他大勢の人間と共通する(x−1)項をもっている。
(たとえばそれは、 ”女は受け身で、待っている”といった思い込みなど)

また、犯罪者は犯罪に走らないその他大勢の人に共通する別の(x−2)項を欠いている。
(たとえばそれは、犯罪を抑制するものとしての想像力や現実的な感覚だったりするのでは。)

と、私は勝手に考えたりする。

原因 ( x )と結果(y)の相関関係でいうなら、ロリコン(アブノーマルな性的嗜好者)( x ) → 性犯罪者(y)というのは、見せかけの相関関係で、別の背景としての ( x )(それが女性蔑視や支配欲求といったものか何なのかわからないが)があるように思う。
(注/「ロリコンは 性犯罪者にならない」と言っているのではない。「ならない」というのは否定する相関関係である。)

私は岸田秀の「 人間は本能の壊れた生き物」という説が気に入っているので、このファイルでは、「アブノーマルの」「ノーマルの」という書き方をしているものの、それは「人類のうち少数派の(性的嗜好)」
「人類のうち多数派の(性的嗜好)」というのが正しい言い方だと思っている。

( 岸田秀「ものぐさ精神分析」(青土社)を読む人がいたら、そのなかの買売春の客と売り手についての説明がふに落ちないと思う人がいるはず。しかし岸田秀は「続ものぐさ精神分析」で、それについて指摘を受けて自分の論点の誤りを素直に認めている。こういう、著者の自分に対するこだわりのなさも面白いと思う。 )(しかし私には岸田秀の「 母親幻想」の著作がどーしても岸田本人が書いた本には思えないのだ。なぜだろう)

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その4 本音と建前

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よそのサイトで拾った話−

「25歳くらいの日本人女性が 「×××(海外の某タレント)っていいね♪」という話を米国人の男性に話したら  「それ、僕(30前くらい)が『モー娘がいい』というような恥ずかしいものだから止(や)めた方がいいよ」 と忠告されたとか。海外ではロリコンやSMにかなりきびしい。(凶悪な犯罪が多いし)」

少なくともこの米国人の男性の所属する米国人社会では「( 心の内ではどうであれ ) 他人の前で、自分の(アブノーマルに思われる可能性のある)性的嗜好を公言しない」という内面的規制ができているようだ。

米国では、おふさけであっても「 自分はロリコンだ」などと公の場で吹聴したら警察に危険人物として通報されてもおかしくないような社会のようだ。

というのは、自分でも、海外のファンサイトを見てまわったときに、「このリングには、公序良俗に反するこれこれこれといった画像や小説が掲載されているサイトは参加できないし、もし参加しているサイトの中でこの参加規約に違反しているファイルを見つけた場合は、即刻警察へ通報します」などの警告が載っていたりするから。

また、
以前「週刊金曜日」で読んだ、渡米してくる日本人に向けての日系人が書いた注意で、「これこれといった日本人の習慣が米国人には警察に通報される、または事情徴収に呼ばれる可能性がある」という例がいくつもあげられていてーそのひとつは、幼児の娘と父親が一緒に風呂に入っているところを写真に撮って、日本の祖父母に送るーというのは、私達には微笑ましい日常の一こまに思うが、写真を現像した米国人の店から、これは幼児虐待の可能性があるとして当局に通報される可能性があるので、やめたほうがいいーというものだった。 そこまでするのかと読んで驚いた。

もちろんCAPを知らない米国人もいるし、マスコミに掲載されるのは最先端の記事なので、米国ではどこへいっても100%そういう状況だろうなどと言うつもりはない。が、米国の保育園に赤ん坊を預けた日本人が、子どものお尻の蒙古斑を見た米国人保育者によって、幼児虐待の疑いがあるとして当局に通報されたという投書が育児雑誌プチタンファンの読者欄にも載っていた。子どもを守るための規制はかなりすすんでいるように思う。
母親である投書者にすれば、園の保育者から何の話もなく、いきなり警察に呼び出されたので、それ以後、保育者と信頼関係が持てなくなったと綴(つづ)られていた。
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米国では少なくとも性的嗜好について、(本音はどうであっても)公の場では自分はノーマル(ロリコンやSMなど犯罪に結びつく可能性のある嗜好ではないという意味。)であると言わなければならないという社会モラルがあるようだ。

しかし、Aさんの身近な人間に、そういうモラルのない人間がいて、それを聞かされた相手がそれを苦痛に感じていることがまったく認識できないらしい。または認識しててもやめないのか、認識してるからやめないのか、そこらへんまでは汲み取れない。 /どちらにしろ、自分の性的嗜好を、社会人として隠蔽しなければならないと認識していないのなら、もしAさんが不愉快に感じることを伝えたら「本当のことを言って何が悪い?」とひらきなおるタイプの人間ではないかという気もする。

いやしかし、Aさんの最初の書き込みでは、その人が子どもの相手をする仕事の場所ではノーマルに振る舞い、仕事仲間らしいAさんたち大人のいる場所では自分はロリコン云々とアブノーマルな発言をしているらしいので、一応、本音と建前の使い分けが出来ていて、本人なりに場所を選んだうえで言ってる〜一種の抑圧と抑制を受けているので、場所を選んで自分を解放する件の高校の教師のように?〜とも読めたので、私はあのようなレスをつけたわけだった。



異常な性的嗜好があるなら、隠しておけばいいと言っているように聞こえるかもしれないが、本音と建前をそれぞれ持ち出していい場所といけない場所の区別がつくかつかないかということや、目の前の生身の人間の不快感を察することができるかできないかというのは、別の話で言うと、アダルトなドラマや小説、ビデオやサイト、ポルノ、のつくりごとを見た視聴者において、それを現実の女性もかくあるものと信じ込んでしまうか、それが特定の視聴者のために作られたつくりごとの世界だと認識できるかの違いくらい、差があるものだと私は思う。


ひょっとしたらの仮説だが、「アダルトなドラマや小説、ビデオやサイト、ポルノ、のつくりごとを見た場合、それらが現実の女性もかくあるものと信じてしまう割合が高い人間のほうが犯罪者になる確率が高い」ような気もする。
(または逆に、「アダルトなそれらつくりごとを見て、現実の女性もこうでるあるという刷り込みを受けてしまったから犯罪者になる確率が高い」という仮説にしたらいいのか。)

それとも、人が子どもから大人へと社会化されていくとき、何かを落としてしまった(何かが社会化されなかった)ことが犯罪の遠因になるのか。/何かとは、何なのか、未だわからない。

脳の器質的な問題に発する暴力的な性格や衝動もあるそうで、そういう「病気」としか断定できないものを、家族は、あなたたちの育て方が悪かったからと言われ続けて苦しんだという話を聞くと、犯罪の原因や遠因など安易に推測できるものではないと思う。


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その5 「社会化」

社会化とは、社会で生きていく上に必要な生活習慣や価値観その他を、周りとの関係から、学習する/模倣する/刷り込まれる といった過程。(たぶん。)

先立ってのファイルで、女の子に対して、性的対象に見られることを意識して立ち居ふるまいに気を付けて(「女の子らしくしなさい」)ほしいと書いたが、男の子の社会化についても書いておきたい。


女が脱(ぬ)げば マトモな男は寄ってくるのに、男が脱げば、マトモな女は逃げ出すのはなぜでしょう」( 「ファンシィダンス」 =岡野玲子の「陰明師」以前の代表作 。陽平の禅問答より)



男の子についても、自分にやましい気持ちがなかろうとも、性的な脅威として相手に警戒されかねないことは してはならないということをわかってもらわなくては困るのだ。

私の知りあいで、冬でも半袖 薄着で過ごす健康家族がいる。両親が北国出身なのと、「かーなーりー」(と大声で言ってもいいくらい)、しっかりした食生活をしているので そうなるのかという気もするが、とにかく知り合ったとき、そこの5歳の男の子は、冬でも短パンと半袖やランニングといういでたちで、今時珍しく、いつも駆け回っているような子どもだった。

ランニングシャツ、はっきり言えば白の男物下着と短パンが彼の普段着で小学校時代を過ごしたそうだ。(「あさりちゃん」に出てくる速井太郎クンみたいなカッコというところか。)

が、小学校を卒業する記念にクラスの皆で、デズニーランドに行こう♪という話がもちあがったとき、彼はクラスの女子の一人にこう言われた。
「あなたがいつもと同じランニング姿で行くというなら、私は行かない。」

Σ(@@川)… 彼にはすごいショックだったそうだ。

その女の子の気持ちはよくわかる。男の子から男になりつつある身体をした12歳の異性(今時の小学6年生の身長は高いっ!)が、ちっとも身なりを意識せず、ランニング姿でデズニーランドに同行されては、その仲間の一人として、みっともないし、恥ずかしい。

彼には悪いが私はこの話を聞いたときは笑いころげた。
そうか。そうきたか。そういうかたちで彼は社会化されたかと。実際それが彼にとって「他人の目に映る自分」というものを意識するきっかけになったようで、中学に上がったときには、少なくとも服装の面にはかなり気を使うようになったという。もちろんこれは外見についてだけの「 他人の目にどう映るか」といった言葉ではないけれど。いつまでも「男の子」の身体ではいられないのだから、それは自覚してくれてよかった。

子どもは、親がなんべん言ってきかせても「親」が言ってるというだけで気にもとめないことを、同じことを他人からの一言で自覚したりする。


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ランニング姿についてはまた別の困った話があった。

放浪の画家の山下清のドラマでは、ランニングと半ズボンが主人公の普段着で、その姿で地方を放浪している。しかし、野や山であったり、舞台が町中であっても、周りの人とドラマを紡いでいるからおかしくはないが、もはや男の子ではない、いいトシをした男の人が、ああいう格好で東京の町中の公民館なんかに出現されたりすると実際には困る。

あの格好でロビーで新聞を読んでいるのなら「地元のおっちゃんが涼みに来てる」ぐらいに思う。
しかし、チラシを見て行った公民館の会議室での、ちょっとした講演を聞く集まりで、隣にすわった見ず知らずの体格のいい男の人が上半身ランニングだったりするのは、あまり気持ちのいいものではないと実際に思ったことがある。

「 知っている人同士が集っているというわけではないのだから、いくらなんでも、もちょっとTPOを考えた服装にしてくれればいいのに。プールや海岸でもないのだから。」と思った。ちょっとヤだなあと。





と、ランニング姿のその男の人は聴覚障害者だった。
(何年も前のことなので、手話通訳者が同伴していたのか誰かが筆記で伝えていたのか正確には忘れたが。)


「たかが公民館なんだから気軽に参加すればいいものだろうけど、ああゆうカッコはちょっと勘弁してほしいよね」と、後日、手話の出来る友人に話したところ、友人は「障害者だけの学校に行って、付き合う範囲が同じ障害者同士とかの狭いままで大人になると、そうゆう、ちょっとした常識が抜け落ちてしまうところもあるかもしれないよ」と、返した。友人なりに、思うところもあるようだった。

先の男の子のような「他人の目に映る自分」を意識する機会が持てなかったのか、それとも服にこだわらない性格だっただけなのだろうか。

もちろん、服装のような「ちょっとした常識」は、誰でもわりあい簡単に抜け落ちる。
学生のとき、私は人と会わないバイトを続けたあと大学の教室に行ったとき、バイトのときと同じ服−トレーニングウェアの上下−だった。友人に指摘されるまで、自分の格好が場にそぐわないものだとは、ちっとも気がつかず、あとで冷や汗をかいた。(T▽T)

小学校の先生などで、四六時中、子ども相手の教室でトレーニングウェアの上下を普段着にしているという人も、「他人(大人)の目に映る自分」を意識する機会がないからだろう。(小学生が先生に「いつもその格好ではおかしいよ」とご注進してくれるとは思えないから。)

私は、ランニング姿の男の人が聴覚障害者だったから服とTPOについて注意しなかったわけではない。禁煙の場で喫煙していたとかならまた別の問題だが、たかが服のことのうえ、私はその人の身内でも友達でもなかったからお節介をやかなかっただけだ。聴覚障害者でなくても、「いいトシした男の人」に対して、あなたの格好はどうのと文句を付けることなどしなかったはずだ。

しかしやっぱりもうひとつ、仮に注意をしたとしても、(その前に通訳者を通して話をするというハードルを越えなければならない。)言葉どおりに受け取ってくれるのかどうかわからなかったからだ。「聴覚障害者だから注意された」と思われないかどうか、わからない。

たとえば、東京に来て間もない地方の人に「地下鉄銀座線の駅はどこですか」と聞かれて、頭上を指さしたら、「私を田舎者だと思って馬鹿にしてますね!」と怒って行ってしまうかもしれないように。

相手に良かれと思うことでも、他人に注意を促すことは難しい。



01,12,15


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