(ひんしゅくを買った話 つれづれ )
私は人の心の痛みに鈍感になっていて、先日、CAP関係のある場所でのある人(Aさんとする)の書き込みに対して、とても無神経なレスをつけてしまった。ここでも謝りたい。ごめんなさい。
どうしてそんな無神経なことを書いてしまったんだろうと考えながら自分の考えをさらってみたが、これはまったく勝手な自己弁護であり、本当に勝手な言い訳つれづれの文なので、興味のある方だけ御読みください。
言い訳にもならないが、Aさんの書き込みの主旨を私は完全に読み違えていた。
Aさんの書き込みを、私は、下のような相談と同じタイプのものに思ってしまっていた。
それはある新聞の相談室の投書で−
「教師の夫が家ではHビデオを見ることが趣味なので、私(妻)は困っている。最近はアダルトサイトも見ているので、夫が性犯罪に走る可能性がないかと心配。先日はとうとう高校生の息子にまでHビデオを見ていることが知られてしまった。夫はもう見ないと言ったが、やめてくれない。どうしたらいいか」
うかつな私はAさんの書き込みの主旨も
「身近でノーマルだと思われていた人達の中に、アブノーマルな性的嗜好を持つ人がいることがわかって私は動揺している。子どもを狙う性犯罪に走る可能性がないかと心配。その人にこれからどう接したらいいのか」というふうにとらえた。
また、先の新聞の相談室での解答者による答えを自分の覚えている範囲で書くと
「教師という倫理的規制の強い職業に就いている人の中には、どこかでそういう自分の解放区を設ける必要がある人もいるのではないでしょうか。云々。ここは困った趣味を矯正しようとするよりも、『まじめなお父さんのどエッチな趣味』として家庭内公開した方がいいかもしれません」
私もいいトシをした大人の趣味を矯正できるものではないと思うので、他人に迷惑をかけるものでなければ認める以外ないのではないかと、解答者の意見に同意する。その教職のダンナさんは家でタガをゆるめているぶん、学校ではまじめな先生をやっているようにも思える。本来、安普請の人間が、仕事の上でも家庭でも社会人としても「いいひと」であることを求められて、100%演じつづけていけるものでもないと思うから。
ひんしゅくもので2度と見たくない代物だが、忘れないために、自分がAさんのカキコに対してつけたレスをコピペする。以下。
「貴方がびっくりして大きなショックを受けることを予想できたからその人たちは自分はロリ嗜好だと貴女に言ったような気がします。相手を選ばずに自分はそういう嗜好だとふれてまわるわけはないので、多分、そういう世界を全然知らなかった(!?)あなたはちょっとからかわれただけという気もしますが。(そういう私は、だからといってショタではありません。念のため。) あなたが彼らの嗜好が不愉快だと思うならその人たちのそういう側面は見なかったことにして普通に接するだけだと思います。相手がよほどの病人なら話は別ですが。 (なんというか、まじめ「すぎる」のはある意味で無防備でとても危ないと思いますが。好青年だから当然その嗜好も真っ当(…って何を真っ当というのだろう??)だと思わない方が賢明です。こんなこと書いて自分の人格疑われてもと思うので、別のHNで記入しようかとも思ったんですよ、はは…) 一異見だと思って読み捨ててくださいませ。 」
ごめんなさい。
これでは「性犯罪にあっても、なかったことにしなさいよ」と言ってるのと同じだ。
これに対するAさんのレスを読んで、自分のあさはかさに気がついた次第。
また、Aさんの主旨は「自分の好まない性的嗜好を意識的に話題にされるという意味での言葉によるセクシュアルハラスメント」に近いもののように思いなおした。また、私にはその困り者の性的嗜好それ自体よりも、その困り者が自分の性的嗜好を一定の場所を選んであけすけに話さずにいられない何かのほうに問題があるようにも見えた。が、これも勝手な解釈であり、また自分の読みたい方向で読んでいると思うので、実際の状況を知ってるわけでもないのでこれ以上それに言及するのは止める。
たとえば小学生のときの私は、掃除をサボって逃げる男子達に憤っていた。だが、それにもまして、憤慨した対象は、一緒に男子に対して掃除の義務を訴えることなく、「 掃除は女の子の仕事でしょ」とばかりに(「 これじゃ当時のCMの「ワタシつくる人、アナタ食べる人」の世界だ。まったく)もくもく掃除する女子のほうだった。私のレスにがっかりしたAさんも、味方になるであるはずの女子にそういう態度を取られたときの私の立場の遠い延長線上にいるように思う。申し訳なかったです。
ただ、私は、「自分の理解できない性的嗜好の趣味を持った人が、職場など身近な人の なかにいても、それはその人のB面だから、普段は(その人がちゃんと普通の人を演じているなら)(先の相談にあった教師が学校で普通の先生を演じているのと同じなら)普通につきあうしかないですよ」と言いたかったのだが、それは、Aさんがたいして緊張する関係でもない仲間内なので言われたのだろうと、自分の想定したいようにAさんの状況を想定してしまったからだった。(御都合主義<自分。)
しかし、そのあとに、「相手がよほどの病人なら話は別ですが。」と、付けておいたのだが、この「 相手が病人なら」という言い方は意味不明の自分語みたいなものになってしまい、通じていなかった。
これは、「たとえ、マンションの自室で凶悪なワニを飼っている隣人が いても、その人が社会人の義務を果たして生活をしているなら、自室に他人を騙して連れ込んでワニの餌にするようなマネをしないかぎりは、ほっておくしかないんじゃないでしょうか」ということで。
しかし、岡崎京子の「PINK」の寓意ではないけど、この伝でいけば、Aさんは、隣室から毎日聞こえてくるワニの鳴き声(ワニは鳴かない/例えですあくまでこの説明は)に脅え、不安を募らせている状態といえるものだったのかと気がつくのが遅かった。(想像力が枯渇している<自分)
キリストは心の中でも姦淫してならないと言ったそうだけど、「人に迷惑をかけない限りは(現実に他人を巻き込むものでない限りは)」、(くだんの相談室の教師のように)どういう趣味嗜好をしていようと関知するべきではないのではといった粋で書いたのだった。甘かった。既にAさんは巻き込まれていることに気がつくべきでした。(感性が低下してる<自分)
何といおうとこれらは言い訳です。
それでもやはり、犯罪の予見はできないのではないかと私は思っている。(後述)
私がアブノーマルと言われる方の肩を持ったこと
私はロリでもショタでもない.。
しかし、私は、30過ぎてもコミケに行くような人間なので、健康な一般の人からみれば、”カッコでくくれば同類項、アブノ ーマルな人種の範疇の側にくくられる”と自分では思っている。
また、 CAPの応援ボランティアも育児マップ制作ボラも、「普通の人」は「そういうことは大事なことだよね」と言いながら、実際にそのために自分の時間や労力を提供したりはしないものなので、自分はキトクな人の部類に入ると思っている。子どものときは「変人」と言われた。
在日韓国人の人が「 もし日本と韓国がサッカーの試合をしたら、日本にいるときは韓国の応援をするだろうけど、韓国に行ったら日本を応援したくなるだろう」と言うのを聞いて妙に納得したことがある。
少数派に置かれてきたものの習い性として、その場その場における少数派の側を弁護したくなるようなところが、自分にも少しある。
もし自分が、CAPの講演を聞いた人による感想やCAPについての説明がPTA広報誌などに載っているのを見つけたとしたら、CAPの主旨をちゃんと理解しているだろうかとチェックし、間違っていたら訂正をもとめる手紙をだすやもしれない、が、どこかのBBS(掲示板)で、「某広報誌にCAPの感想を書いた人は、CAPの主旨を理解していない」といった書き込みを見つけたときは、「同じCAPを聞いても人によって強く受け取るところは違うし、感想を自分の言葉で語るとその人の手持ちの言葉で説明しようとなり、多少誤変換されてしまうこともあるので、大筋ではずれていなければ、いいのではないか。」とか、弁護のレスをつけたりした。
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さらに勝手な言い訳をさせてもらえれば、私はこうも書きたかった。
「誰だって、他人に日常お見せしているA面の裏に、他人には見せられないB面を持っているものでしょう?」と。
(しかし、「私にはB面なんてありません」と返されたら、こちらの立つ瀬がない。 )
世の中には裏と表のあるレコードな人と、表面だけしかないCDな人がいる。
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(注/CDがレコードに取って代っていくとき、CDを買って、「 これ、裏面がない。不良品だ」と思った苦情があったという話も残っているように、レコードは表と裏の両方に録音されている。)
この場合、B(裏)面とは、「他人に知れた場合、『いいトシをしてそんなことやってんの?』とか、『アブノーマルなんじゃないの?』などと眉をひそめられる可能性があるので、おおっぴらにしていない面」というようなモノだ。
そういう説明をした場合、人は 「うんうん、裏表って誰にでもあるよね」と言ってくれる人と「人間に裏表なんてあってはいけません」という人の2種類に分けられるはずだ。
小学校の先生が児童に対する建前として、「裏表のある人間になってはいけません」というのはわかる。しかし、後者の善良な人のなかには、理解できない他人を「良くしてあげよう、いい方向に導いてあげよう」と思う人がいて、そういう人は自分の努力が実らないと腹を立てたりする。(かつて私はそういう側にいたので自省を込めて。)基本的に他人の事は他人の事だと思うようにしたい。TV番組で、掃除をしないぐうたら主婦を矯正しようといういう番組があったそうで「あまりにひどい。ぜひなんとか直してあげるべきだ」という意見と「本人たちが掃除をしない部屋のほうが落ち着くというのだからほっておくべきだ」という意見が新聞の声欄に載っていた。私は後者に賛成。もちろん「それが他人の迷惑にならない限りは」。(//「 良くしようとするのは やめたほうがよい」(村田由夫著/寿青年連絡会議清算事業団)
Aさんがレコードな人かCDな人か、聞いてみなけりゃわからない。
しかし、書き方ひとつ、前後の思い込み ひとつで どう受け取られるか。
Aさんが「私は馬鹿にされてるのか?」と、受け取らないとも限らない。
「この人はこういう人」というラベルを貼られてしまうと、その方向で偏向がかって受け取られてしまうというのもある。
十代のとき、渋谷のハチ公付近を友達(女の子)と歩いていたら、年配の男の人に「すいません、銀座線 ( 地下鉄 )の駅はどこですか」と、 日本語で たずねられた。友達が「あれですよ」と、頭上のそれを指さすと「あなた、私が朝鮮人だと思って馬鹿にしてますね!!!」と、ぷんぷんと怒りながら行ってしまったことがある。私達は顔を見合わせるしかなかった。
馬鹿にしたのではない。地下鉄の銀座線の発車駅の改札とホームは地下ではなく、2階にあるのは本当で、地下鉄は途中から地下に潜るということをその人は知らなかったのだ。
「日本人は自分を馬鹿にする」という先入観ができていたのだろう。あのあと何とか銀座線にたどり着いて、「あの女の子2人はウソを言ってなかった」と、わかってくれたことを望む。
(子どものときから都内に住んでいた私は、地下鉄東西線も途中から地下に潜ると知っていたから、当時の 「 地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね?」という有名なギャグが子どもの私にはよくわからなかった。)
ロリ男性の味方をするわけではないが、性的嗜好とそうした人による実際の犯罪の予見についてはべつのものではないかと思う。これは専門家でもない自分の素人判断なのであくまで私はこう思うというだけの話。
ビデオデッキが普及するとき、(ビデオショップのコーナーがVHSとベータに別れていた頃を私は覚えている)「 ポルノビデオを見たくて皆デッキ買ってるんじゃないの?誰かそこのところの相関関係を調査してくれたら面白いのに」と、社会学の教授が言っていたが、アダルトビデオやHサイトを見る人作る人が皆犯罪者になるわけではないので、そういうものを観る大人を特別だとは思わず、性的嗜好と実際の犯罪が即、結びつくものはないと思う。
犯罪を抑制する要因の一つには、どこかの代議士の言ではないが、「警察に捕まるから(性犯罪を)やらない」という面もある。
その場合、加害者側にとって犯罪後にそれが発覚する可能性が低いと判断さ れたときと、犯罪の成功率が高いと判断 されたときに、抑止力は低下するだろうから、 そういう点で、大人の女性より子どものほうが狙われやすいとも考えられる。 だから、「子どもを性犯罪の被害者にする輩はロリコン 」という見方はちょっと違うのではないかと。
また、犯罪の予見はできないのではないかと思う。
「そんなことはない、以前警察は事件が起きるまで手を出さないものだったが、ストーカー防止法ができたし、児童虐待防止法もある。」という反論もあるだろう。
確かに、とり返しのつかない犯罪が起きる前に子どもを保護したりストーカー男(女)を拘束したり出来るようになったが、それは既に目に見える犯罪を犯しているのを保護されたと言えるのでは。
小動物を残酷な方法で殺すのが好きな人が将来犯罪者になる可能性も言われるが、これもすでに大きな犯罪の前に目に見える実際の軽犯罪を犯しているといえる。しかし本棚が美少女写真集で埋まっている人がいても、それで将来犯罪者になるかならないかといった予見は、無理なのではないか。
女性が子どもを出産した時点で、その女性自身の成育歴を行政がチェックして、「この母親は子どものときに被虐待経験があるので、将来自分の子どもを虐待することが予見されるので親権を取り上げよう」といったシステムは作れないし、作ってはならない。
(注/ 「虐待の連鎖」については「子どもを虐待する親の中には、親自身が子どものとき虐待された被害者であった人も、(なかには)いる」という意味で、決して「虐待を受けて育った子どもは将来親になったときに、今度は自分が加害者になる」という意味では、ない。念のため。)
「『犯罪者』というものが最初から存在するわけではない。私達がその人を犯罪者(予備軍)とみなすことによって、その人は犯罪者になるのである。」という社会学の言葉があるが、確かに、「 あの子とは遊んではいけないよ」と、周りの親が自分の子どもにいうことで、皆から排除されたその子どもがますます粗暴になるなど(レッテル張りだったかラベリングというのか、記憶がおぼろ…)、周囲が犯罪者(予備軍)を作ることは出来ると思う。
社会学の教授が(私が学生のときにかじったのは社会学) 「 過去の文献や事象を調べて原因 ( x )と結果(y)の相関関係を導き出し、それを使って未来を予測するのが社会科学だ」とかなんとか言っていた。確かに既に起きてしまったことにあれこれゴタクをつけることは学者でなくても誰でも出来るので、これから何が起きるのかの予測をたてることが、本来の学問の目的と言えるのかもしれない。
「実際に人の道を踏み外してしまう人に共通するX(エックス)項やカテゴリーや分岐点,犯罪の予見性といったものはあるのだろうか? (…あるなら大発見だと思います。)」と、心理学関係のサイトの友人に尋ねてみたら
「私は、共通項探しはきらい。99人が人の道を踏み外す 共通項を、1人が持っていて踏み外さなかったら、その1人はどうなるんですか。 同様に、犯罪の予見性はありえないと思います。」と言われた。
さらに、
「そういうのを予見して拘束しようというのを、保安処分と言うのです。現行の精神障害者に対する措置入院制度が、すでに保安処分であり、さらに、そういう制度があるから、たとえば精神障害者は危険なので あろうという思い込みを促進する(取り締まる法律があるということは 悪い奴なのかな?)という悪循環をもたらす面もあり、住みよい社会を 作りたいと真剣に願うならこういう動きはなんとか阻止したほうが よろしいもんであろうと思います。 」 と。
社会学で確実に出来ることは、仮説を立てることと仮説を検証することくらいかもしれない。
1)仮説を立てる
例@「性犯罪の加害者は、公園に寝泊まりする浮浪者のような人間で、被害者にとって知らない人間であるのが大半であり、一定の社会的地位を持って生活している普通の人で、被害者にとって顔見知りである人間が加害者である割合は低い」
例A「精神障害者は一般の人間よりも犯罪を犯す率が高い」
2)仮説を検証する
調査項目を作って過去の犯罪のデータから統計を取り、仮説を証明するだけの有意な差があるかどうか計算する。
そして、上のふたつの説は「 根拠のない思い込み 」であることが証明されている。
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CAPの大人向け学習会に参加したことのある人なら一般に流布している 例@ が思い込みであると聞いて知っているはずだが、実際に精神障害者が事件を起こすことは新聞でよく報道されるじゃないかと思う人もいると思う。しかし新聞に報道されることは、膨大な犯罪データの中から「精神障害者が起こした事件」だけをピックアップして、偏った事例だけを一覧表にすることに似ている。
それはたとえば地震の発生を記録した年表の中から、50年ごとの地震のデータだけを抜き出した一覧表をつくって、「この一覧表を見れば、地震は50年周期で起きる法則があることがわかりますね」ということに似ている。(閑話/霊感商法で社会問題になったキリスト教を偽る宗教団体も似たような方法で歴史上における神の意志の出現なるものを説明していた。まだ社会問題になる前に、そうとはしらず行って話を聞いた私は、最初、うっかり信じ込みそうになったくらいだった。)
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すでに犯罪の経歴のある人の再犯率なら過去の統計から導き出されるだろうが、普通の社会生活を送っている人のうち、どういう(x)を持った人が将来人の道を踏み外すか(y)の予測は、立てられないのではないか。
(2、3年前にネットで目にした話で「痴漢常習者が恋人の同意のもとに性ホルモン拮抗剤を飲んで、再犯を食い止めた例が日本でもある。再犯したら仕事先から解雇されることを通告されていたので。」というのがあるが、それが一般的な犯罪予防の処方にはなるだろうという話はまだ聞こえてこないな ー 。たぶん薬の副作用で、疲れやすくなるとか何かがありそうな気がする。).
加齢による考え方の変化
「10代のときに怒っていた事柄に対して、30過ぎた大人になった自分は怒らなくなっている。トシくったなあと自分に対して思う。」という人がいた。( う、自分もそのとおり…)
「子どものときは、昼間見た心霊写真や宇宙人の写真を思い出して夜中にトイレに行けなくなった人は多いけど、大人になってまで怖い記事見たからトイレに行けなくなるなんて人はいない。大人になると宇宙の神秘とかいうよりも、下界の自分の生活のほうがたいへんになってくるから」(植芝理一『ディスコミュニケーション』) 感性は低下するし、世の中には不条理が際限なくあることにも気がつき、(または、 慣れてしまい)いちいち怒ってたら身が持たなくなる。自分の生活を立てていくほうにエネルギーを優先し、怒りにまわすエネルギーは低下したとも言えるのか。
また、それとは別に、対象に対する理解が、加齢とともに加わるという事もある。
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(その1)
ン十年前にその記事を読んだ時 − 広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの機長、ポール・ティベッツが「原爆を落とした事を後悔していない」と言っていると知った時 − は怒りに身が震えた。
もちろん、彼が実行しなくても代わりの者が「任務を遂行した」わけだし、アメリカには「 原爆によって戦争が終結し、たくさんのアメリカ兵が死なずにすんだ」という考え方が一般的だということも知っていたが、それでもショックを受けて暗澹たる思いに沈んだ。
と、最近、ボブ・グリーンの長編ノンフィクション「<デューティー>我が父、そして原爆を落とした男の物語」(光文社)の書評を読んだ。(まだ生きていたのか…)彼は まだ「後悔していない」そうで、「 従軍の体験を今でもまだ誇りだと感じている」 とも。しかし「 正しい戦争などありえない」とも応じているという。
ふと思った。もし彼が原爆を落としたことを後悔していたなら、戦後50余年も生きていられなかったのではないかと。もし「後悔」などしたら、その瞬間から、日ごと夜ごと何十万という死者たちのうめきと良心の呵責に押しつぶされて、気が狂っていたか、自殺していたとしてもおかしくない。
そんなことを思ったのは、日本でも、犯罪の被害者の遺族が加害者から謝罪の言葉を直接聞いたり和解へ導く試みが司法の場で試験的にすすめられたりしている話を聞いたからで、ある被害者(子)の遺族(親)の話は−
「 親として、子どもが死んだことに対して、それがその子の寿命だったと納得したいという思いもある。いつまでも加害者を憎んでいると、残された自分たち(被害者の親)自身の残りの人生もめちゃくちゃになってしまうから。」
たぶん、親は加害者を憎むと同時に、子どもを助けられなかった自分自身を責めさいなんで生きていかなければならなくなるので、上の言葉は、ある意味で親自身が加害者と事件と子どもと、被害者の遺族であるという重荷から少しだけ解放されて生きたいという思いではないかとも思う。
(もちろんこれがすべての遺族の気持ちを代表する言葉だといいたいわけではない)
憎しみと自責と死者の無念に対する重圧で残りの人生を送るよりも、生きている人間の生活を優先することを死者は許してくれるだろうか。
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(その2)
中学のときに、乱暴で気に入らない女子の顔を見ると「ぶす」という言葉を投げつけるようなの男子生徒がいた。そういう言葉を投げつけられていた私は、「あんなヤツはまともな人生をおくらない」思っていたので、ヤツが後に少年院に入ったと聞いたときは正直言って「やった」と思った。私は友達に「私がヤツに与えた評価と世間がヤツに与えた評価が一致したのだ」と言ったりしていた。
しかし今思うと、自分の顔を嫌悪と悪意で見る同級生が目に入ったら、むっとくる方が自然な感情というものだろう、むかついて汚い言葉をなげかけたくなるかもしれない。
なにぶん中学生だったので、嫌悪の感情の相互作用による悪循環にはまっていたことなど、その時はわかるはずがなかった。不良というラベルを貼っていたのかもしれない。むこうはそのラベルの通りに成長したのかもしれない。 もし自分が中学生の時スクールカウンセラー制度があったら、そういう人に相談にいくことが出来たら、少しは違った展開になっていたのだろうか。
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(その3)
今も言われている言葉かどうかしらないが、ちょっと前までは「女の子らしくしなさい」と親から言われて育つ女の子も多かった。
作家の吉永美智子さんが面白いことを書いている。
「私は子どものときから男言葉を使ってきて、母親や教師がやっきになってそれを矯正しようとしたが、とうとう直さなかった。なぜなら、『 困ったぜ』という言葉を使えば『なんとかしよう』という気になるが、『困ったわ』などという言葉を発した日には、ますます困ったことになってしまうということを子供心にも知っていたからである。」 さすがに言葉を職業にするだけある。
「女の子らしく」
私もその言葉にずっと反発してきたが、今はそれが必要な場合もあるのではないかと思う。
(あぅっ!石を投げないで下さいぃっ!)
これは10代のときに読んだ新聞の家庭欄の「こころ」だったか「 ひととき」欄への投書だったと思う。それは小学校高学年の娘に対して母親の思いを述べたものだった。以下−
「あなたは『女の子らしく』と言われれば反発するだろうけど、いつまでも子どものままではいられない。身体はどんどん丸みを帯びて女性らしく変化していく時期なのに、心はまだ子どものままなので、あなたの立ち居ふる舞いをみていると、とても心配になり、口を出さずにいられない。」
そうなのだ。自分がその投書を読んだときはそう深くは考えなかった。まさか、自分が投書者と同じ立場に立つとは思わなかった。
私だって「女に生まれたからには、いつなんどき不心得者の性的対象になるかもしれないのだから、いつも用心して振る舞いなさい」などと言いたくはないし、『はしたない』とか『つつしみがない』という言葉を使いたいわけではない。
しかしここでは小学校高学年の頃の、精神年齢が未熟なときなで、変化していく身体に心が追いついていない、時期的な危なさを言っている。
他人の目に自分がどうイメージされるかということを気にしない子どもの段階だから、自分の身体が性的対象になり得るということにまったく無自覚なままの立ち居ふるまいをする。「あぶない」「 なにが?」という状態。はっきり言えば、スキだらけ(の時期)。
考えてみれば、生まれてこのかた家と学校、幼稚園の往復だけで、知っている大人といえば親と祖父母と学校の先生。友達のお母さん。(叔父さんとか友達のお父さんとかいうものはほとんど出てこない)。父親や男の先生というのは、子どもにとって性を超越した存在であってほしいものだから、異性の目にさらされるという機会はほとんどない。だから、無自覚なのはあたりまえとも言えるのか。
…本末転倒の話だとわかっているが、子どもが一人で道を歩いていて、知らないおじさんから「 ねーちゃん、 いいケツしてんな 」 とかなんとか声をかけられでもすれば、少しは他人の目に映る自分というものを自覚してくれるだろうか、と思ったりする。親としては早く心が身体に追いついてくれと願う。
(かなり現実と妥協している、 なりたくないと思っていたキタナイ大人になっているな ー )
自分の考えをさらってみたら、まるで千尋がオクサレサマの刺を抜いたらそこから汚物や粗大ゴミや廃棄物がぞろぞろ出てきたようなものになり…すいません、読んでいただいた方、有難うございます。
(7,27)
(追記)
(ある女の子は中1になったときにクラスの男子から「おまえ デカイ尻してるな」と感心されるように言われてから”他人の目に映る自分”を意識し始め、子どもではいられない自分を意識し始めたと作文に書いていた。たしかに”デカイ尻”と言われるのはセクハラかもしれないけど、自分が知っている自分ではない自分が他人の目に映っていることを、子どもから大人への変わり目のときに知ることは重要だという意味で本末転倒なことを書いた。
(12,18)