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その1.ポケモンという隠喩 ポケモンは、ふだんは手のひらよりも小さいモンスターボールにはいって、ポ ケットの中に収まっている。そしてトレーナーはその持ち主であり、管理者で あり、使い手でもある。つまり、ポケモンは、トレーナーの分身であり、トレーナ ー自身の属性の象徴,隠喩といえるのではないか。 だから、ポケットのなかのモンスターというのは、 …持ち主の 力,暴力,美しい夢,炎のような情熱、あつい心,ナゾ,汚いもの 怒り,あるいは何かを破壊できるほどの大きな力,狂気,飛ぶ力(ちょっとポケ モンを思い浮かべればいろんな言葉に置きかえられるのが楽しい)etc… …そういう 野性,あるいはもろもろの「 ちから 」を象徴しているのではないか。 そして、トレーナーはそういう力を使いこなす「 理性 」という役割を担っている。 すると、ポケモンを使いこなすとは、自分の中の暴力をどうコントロールしていく か、というテーマにも見える。(あ,これは もののけ姫のテーマでもある…?) もしくは、ポケモンを上手に使いこなした者,コントロールできた者が、「ポケモ ン・マスター(達人)」とするなら、連想するのはマンガの「マスター・キートン」。 「マスター・キートン」の「マスター」には、人生を楽しむことについての達人という 意味も意図されている。すると「ポケモン」のほうは、自分というアイテム(ポケモ ン)を使いこなして、いかにして人生の達人をめざすか?という話にもみえる。 「マスター・キートン」(原作者あり)は、健全な志向が底流を流れる、私の好きな マンガの一つで、同じマンガ家が、現在「モンスター」を連載中。こちらには、人の 心の闇を引きずリ出す能力を有した青年、青年に操られる人の心の闇、という二 つが、タイトルの「モンスター」にこめられていると思う。 「ポケット・モンスター」を使いこなして「マスター」になるとは、どういうことか? そういえば、以前、栃木の中学生が、自分を注意した女性の教諭を、ポケットに しのばせていたナイフで死なせてしまった事件があった。 「ポケットの中のナイフ!?、まるで『ポケットの中のモンスター』の直喩じゃない か?その中学生は、自分の中のモンスターをコントロールできずに,暴走させ てしまったのか」 …と思うのは、不謹慎だろうか? だからといって、子どもに刃物(ここでのポケモン)を禁止するのは逆の話ではな いか。ポケモンを管理できるようになるには,管理しようとすることを止(や)めるこ とで、サトシにとってのピカチュウのように,目の届くところにおいて、仲良くなるこ とが大事だと思う。 つまり、40年前の子どもが、遊びでも生活の道具として使っていたように、日常 的な道具としてのナイフを復権させるのが正解だと思う (が…難しいですね。) 逆に、ちょっとしたような、周りから見たら、なんでこんなことであっさり死を選ぶの かという ( 簡単には決め付けられるはずはないが、やはりなんで?と疑問が消え ないような)自殺をする子どもというのは、子どもの中の「ポケモン=生きる力」が、 ちゃんと育っていなかったのでは、と思ったりもする。 …こう考えるのは、不遜だろうか? 心の中になにかしらのモンスターを飼ってない人が、いるのだろうか? それは、とてもきれいな、夢見る力 成長しようとする力 などである場合もある が、決して目を合わせたくない狂気,見たくないモンスターを閉じ込めている場合 もないわけではないはずだ。 また、ポケモンの プリン,ピッピ,ナゾノクサは、それぞれ心の中の、美しい夢を 見る力見えないものを感じる力,成長する力 などに置きかえることができる。 しかし、もしも、まわりが、先生が、親が、自分自身が、それらの存在を認めて育 てるということを許してくれなかったら? つまり、「 そんなバカげたものを持っていてもしょうがない」「おまえにはできない」 と、<それ>が育つ可能性をつぶしてしまったら? そこで、そのポケモンが消滅してしまうほうが、まだましだ。 こわいのは、健全に育つことを認めてもらえなかった<それ>が、とんでもない化 け物に成長してしまう可能性があること。 だから、プリンやピッピやナゾノクサがどんなに愛らしく見えても、やっぱり彼 (彼女?)らは モンスター だと思う。 中沢新一著作のポケモン解読の本は、後に図書館で読んでみると、おもにRPG ゲームについての文化人類学の言葉を使った物語論だった。 (私の読み替えとは違っていたが、フロイトも引用されていて、ポケモンを生命の力と みなす点は同じでした。) 詳しくは 本の話 2.誰の物語か |